[2005年01月23日]

車社会と高齢化社会の接点 (1・23・2005)

<ジープ・16歳の中学生の初体験>
 1945年10月なかば、終戦後初めて学習院中等科の授業が始まった。鎌倉から乗った満員の横須賀線電車が横浜駅を過ぎてすぐ、電車の窓から見えた光景が今でも忘れられない。つい1カ月前までの焼け野原が、進駐軍の巨大なモータープール(その時はその名称さえ知らなかった!)になり、見渡すかぎり、数百台のジープ、中型トラック(あとで、「ウェポン・キャリヤー」と呼ばれることを知った)、大型トラックが整然と、また威圧的に並んでいるのが見えた。一度にあれほど多くの車両が一カ所に集められているのをそれ以後見たことがない。戦争中によく聞かされた「物量」の意味を実感した。
 中等科4年の春休みに、横須賀線戸塚駅のそばにある「第8軍戸塚補給部」でアルバイトを募集しているの見つけ、面接を受けたら合格してしまった。そこでは、関東地方の各部隊に配給する約70種目のタバコ関連の物品(タバコや葉巻、マッチやライターなど)の数量を部隊の兵員数に基づいて計算するのが仕事の中身だった。ランチには必ず大きな肉の塊の入ったスープと白いパンが出された。肉に飢えた当時の日本人にとってこの米軍供与のランチは思わぬ贈り物だった。
また、私の車の運転歴も、この「第8軍戸塚補給部」で始まることになった。ジョージ・タナカという二世の軍曹が私の上司で、仕事の上で電動計算機の使い方や計算の仕方を教えてくれたばかりでなく、昼休みにはジープの運転までも教えてくれた。もちろん運転するのは施設内に限られていたが、ジープが動き、走り、止まるまでに3日(正味3時間)とかからなかった。ジープを単に物として眺めるのと、実際に動かすのとでは雲泥の差である。戦争に負けたおかげで、勝者のジープが私の運転の初体験となった。今でも私は、二重の意味で兄貴のような二世サージャント・タナカのことを忘れていない。

<トロントのJETRO・1台は公用で、もう1台は私用の贅沢>
 1957年8月、イリノイ大学大学院からスカラーシップをもらって政治学研究科修士課程に入学した。�ャンパスに落ち着くやいなや、生活必需品のおんぼろフォードを買った。おんぼろではあったが、私が帰国するまでの6年間、あまり金のかかる故障もしないで、暑く湿気た夏も、寒く雪の降る冬も、ずっと動き続けてくれた。
1958年の夏は、たまたま紹介してくれる人がいて、カナダのトロントにある日本貿易振興会(JETRO)の「ジャパン・トレード・センター」でアルバイトすることになった。主な仕事は、毎年9月にトロントで開かれる「貿易博」の準備とそれに付随したこまごましたカナダ政府やオンタリオ州政府との交渉ごと(最も大きな仕事は、会期中毎晩オンタリオ湖上に打ち上げる数百発の日本製花火の輸入、輸送、貯蔵、打ち上げの許可申請)と、夏休みに日本の役所や経済・産業組織からトロントを訪れるお偉いさんたちの世話であった。オンタリオ湖の西端にあるトロントから南東のナイアガラ滝まで車で片道約2時間、河の橋を渡ればアメリカの国境を越えニューヨーク州に入る。ナイアガラにはカナダ滝とアメリカ滝がある。カナダ滝の方が規模壮大である。日本からのお偉いさんたちは、パスポートさえあれば、ナイアガラをカナダとアメリカの両方から見ることができる。 そんなときに、ドライバー、ガイド、通訳を務めるのが、隣国のイリノイ大学からやってきた臨時雇いの私ということになる。
このため、私は公用の長距離ドライブには8気筒のアメリカ製大型車、通勤や買い物などの私用には6気筒のイギリス製小型車の2台の車を自由に使える恩恵に浴した。アメリカ車はちょっとアクセルを踏み込むと制限速度100キロのスピードがでる。100キロのスピードが出ても、車体にもパワー・ステアリングにも全く振動はない。イギリス車は小さいながら高速道路では90キロくらいは軽く出るし、トロントのような大きな都市では駐車するときに便利である。2台の車を占有し、好きに乗り回すことができたのは後にも先にもこの時だけである。週末にはカナダ人の友達と東はモントリオール、西はカナディアン・ロッキーまでグループで車旅行をした。自然がたっぷりのカナダでは、車社会の快適さに首までどっぷり漬かることができた。
 
<日本はクルマにこわい・ペーパードライバーとなる決断>
アメリカやカナダで、また後にはにヨーロッパで、何回も「自動車事故」の現場を見た。痛ましい人身事故の現場も何回か通りすぎた。アメリカやヨーロッパでの人身事故のほとんどが車の中の死傷で(車外に放り出されるという場合もあったが)、車体そのものが凶器となって乗っている人間を傷つけ、最悪の場合には墓場となる。これに対して日本の人身事故は、車の中の死傷もさることながら、通行人を巻き込むことの多いことが欧米と違う。6年のアメリカ留学から帰国した直後、奥さんが車で人身事故を起こし、被害者が死んでしまったために辞職した大学教授の話が週刊誌に載った。この話はアメリカから帰ったばかりの私に強いトラウマを残した。
車と人とを区分する歩道を考えないで進められてきた日本の道路行政。そのため、車とバイクと自転車と人が入り乱れる狭い道路。年寄りや子供や障害者など、社会的弱者の安全や安心をほとんど考えないで昔から使われてきている大小無数の道路。家庭でも学校でも「安全に歩くこと」「安全に子供を連れて歩くこと」を教えない日本の文化。��メリカやカナダの生活で右側通行になれきった私は、無秩序に混み合った日本の道路で車を運転する勇気と自信を持てなかった。せっかく大学に得た職を事故の加害者になることで失いたくなかった。アメリカの免許証を日本の免許証に書き換えはしたものの、車の運転はきっぱりと諦め、完全なペーパードライバーとなった。
朝夕のラッシュの渋滞がひどく、公共の交通機関が発達した東京に住んでいるかぎり、車にそれほど実用的価値は認められない。家族が車社会に消極的な私の姿勢に協力してくれたのも幸運だった。わが家では、家内も娘2人もペーパードライバーである。もっとも下の娘だけはスタンフォード大学に留学してホンダの黒塗りクーペの中古車を買い、2年間乗り回した。その車を選んだのは、たまたまスタンフォード大学に立ち寄る用事があった彼女の父親であった。今でも彼女は休みを使ってサンフランシスコを訪れ、合気道を教える。そんなとき、彼女はかつての父親のように、ごく自然に車社会に溶け込む。

<高齢者社会と車��会との共生・車社会は高齢者を区別するか?>
「日本デザイン機構」というグループが最近「クルマ社会のリ・デザイン」という本を出版した(鹿島出版会、2004)。この本は、第1章(佐野寛編)「クルマ社会の光と影」、第2章(谷口正和編)「クルマ社会の広がり」、第3章(犬養智子編)「クルマ社会の成熟」、第4章(水野誠一編)「クルマ社会のリ・デザイン」の4章からなる、内容も装丁もなかなかシャレタ本である。 本を一読して真っ先に感じた。どの章もおもしろかったが、私にとって(また、おそらくは私と同世代の読者にとって)最もリアルで切実な問題として迫ってくるのが、第3章の「クルマ社会の成熟」だ。この章の編者は最初にこう指摘する。「高齢社会では、移動の問題は、シニア市民の基本的人権として認識されなければならない。自由で快適な移動が、だれにでも、いつでも、どこででもできることが、個人の<自由で自立した生活>を確保するための基本だからだ。」 全くその通り、と思う。しかし、これはまた、「欧米の常識は日本の非常識」の例のひとつではないのか。欧米ではたしかにシニア市民(日本でいう「高齢者」)にも車による移動の自由が権利として認められている。しかし、そのためには、まずシニア市民の安全かつ安心できる運転を可能にする道路環境の基礎がある。例えば、多くの都市工学の専門家が指摘するように、歩道のない車道が都市のあちこちに残っているようでは、車社会は成熟したとはいえない。第3章「クルマ社会の成熟」は、車社会と高齢化社会の接点で起こるいろいろな矛盾を改めてわれわれに考えさせてくれる。
かつては車社会の加害者になるのをおそれて、私は車を断念した。いまは車社会の被害者になるのをおそれて、歩くとき、自転車に乗るとき、後ろや左右に注意を怠らない。人と自転車とバイクと車が互いに驚くほど器用に避けあっている狭い空間を、いつも私は危険を身近に感じながら歩いたり、自転車に乗ったりして移動している。こうしたリスク感を私はアメリカやヨーロッパで感じたことがない。おそらく、歩道が自分の安全を守ってくれているという安心感があるからなのだろう。残念ながら都市レベルでの日本の移動空間は欧米なみの安全性と快適性をいまだに達成できていない。その�め、若かった40年前も、年をとったいまも、私は日本の車社会の成熟を感じない。 (了)

日本デザイン機構編「クルマ社会のリ・デザインーーー近未来モビリティへの提言」、鹿島出版会、2004。

投稿者 m-staff : 2005年01月23日 11:44

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