[2005年07月09日]

60年目の節目(1): ある中学生の戦争---1945年8月15日 (9・2・2005)

<はじめに>

 太平洋戦争が終わった1945年8月15日、われわれは学習院中等科2年生だった。とはいえ、前年の1944年春、すでに学習院中等科1年生、2年生は富士山麓滝ヶ原廠舎に赴き、本物の銃剣を帯して「野外演習」に参加していた。44年の秋、われわれは「学習院中等科1年生勤労報国隊」として小田原湯浅蓄電池工場に「出動」し、授業のかたわら、潜水艦の蓄電池の生産につとめた。翌1945年4月、目白校舎がB29の夜間焼夷弾攻撃を受けた。木造建物のほとんどが焼失した。7月には中等科2年生、3年生、4年生からなる「学習院中等科勤労隊」が編成され、山形県鶴岡市に出動し、工場における航空機部品の生産と農作物の生産を援助した。8月15日の「終戦」は、鶴岡で迎えた。

 その後、「勤労隊」は現地で解散し、8月末までに、われわれは各自、家族�住む場所に戻った。多くの者はアメリカ空軍の容赦ない焦土作戦で自宅を失い、東京を離れ、家族があちこちに分散して住んでいた。9月2日、日本はアメリカ戦艦「ミズーリ」艦上で降伏文書に調印した。満州事変以来の長い戦争にようやく終止符が打たれた。そして、10月4日、学習院中等科は3ヶ月ぶりで目白校舎における授業を再開した。

 以下は、1945年8月から9月にかけての学習院中等科2年生の日常生活と思想を中心に据えた回想である。深秋会のホームページに登場させるのにはいささか重すぎるのではないか、と迷った。にもかかわらず、60年前の中学2年生が何をなし、何を考え、どんな未来を夢見ていたかに興味を持つ団塊の世代もいるのではないか。また死と生の狭間にあった中学生たちが、どのように死と生に向き合っていたかに興味を持つ現代人たちもいるのではないか。こうした思いの結果として、私はこの長文のメッセージがBlog形式のホームページに馴染まないことを知りつつ、あえて載せてみることに決めた。

 おもしろくないと思ったら、すぐにでも読むのを止めるべきである。おも��ろくないものを無理して読むのは時間の空費であり、ストレスをためるだけである。また、読むにしても、一語一句読むのは暇人がやることだ。斜めに眼を通し(スクロールしながら)何かおもしろそうなキーワードにぶつかったら、そこで止まって拾い読みをすればいい。

 コメントや質問は下記にメイルしていただきたい。できるだけお答えしたい。
<630039@gakushuin.ac.jp>

 最後に、ちょっとだけ予告をしておくと、年末までに「60年目の節目(2):奇人変人のすすめ」をこのコラムに載せてみようと思っている。乞御期待。さて、それでは、本論に入ることにしよう。

<1945年8月:「学習院中等科勤労隊」の鶴岡市出動> (日記からの抜粋)

1945年8月9日晴(木曜日)
 昨日と同様、早朝より8時まで畑作業の予定なれど、7時ころ警戒警報、次いで空襲警報発令。全員一先ず屋内に入って状況を見る。F6F艦載機数機猛スピードで上空を通過。後続なし。大して心配はなさそうという事で、7時半ころより作業再開。朝食後は各��読書。自習時間は17条の憲法の筆写。14時ころ、警報すべて解除。17時の報道でソ連が日本に宣戦した事を知り驚愕す。果たして我が国にこの戦争に勝利する機会ありや?筆写、17条憲法14条まで進む。釜石に艦砲射撃との報道あり。本土に艦砲射撃を許すほど、我が軍は海空陸ともに劣弱無力なのか。

8月10日曇時々雨(金曜日)
 本日は舎内当番なり。朝礼終了後、舎内の清掃。6時半、大橋と朝食を取りに行く。途中で激しく降雨。二度木陰に退避。帰途、警戒警報発令。朝食後、空襲警報。9時ころ、乱雲のかなたに爆音を聞く。数機が旋回中なり。雲の切れ目から瞬時機影を認む。再びF6Fなり。遠くにいくつもの爆発音聞こゆ。鶴岡上空に敵機8機ありとの情報入る。湯野浜、加茂、酒田が銃爆撃され、いずれも炎上中の由。母上らのいる湯野浜が大いに心配である。湯野浜では丘上の厚生館旅館に爆弾命中、爆砕炎上、死者、負傷者が出た模様との通報あり。母上のいる祖母の家から1キロも離れていない。

8月15日晴(水曜日)
 本日は昭和カーボン班に編入される。おそらく材木運びならむ。��時半起床。6時に出羽寮に向かう。出羽寮にて朝食。8時半出動。やはり材木運びなり。本日の指揮官は菅原教官。作業中、誤って坂が生爪をはがす。10時半に作業を終了、出羽寮に戻る。正午に陛下、御(おん)自らラジオで御放送あそばされる由。12時まで自由。2班、3班も風間寮より出羽寮に到着。正午、陛下の御詔(おんみことのり)を拝聴する。大日本帝国遂に敵連合軍に和を乞うことに決したり。何たる悲壮、何たる悲哀!教官も学友も声なし。全教官全学生、顔を伏せ声なくただ滂沱涙す。歴史的一時(いっとき)とはかくの如くして到るのか。陛下の御仁慈に感泣し、また戦いに敗れた口惜しさからさらに涙す。嗚呼我等、今からは敗れたる一小国家の国民に過ぎず。これから敗者としての屈辱的生活が始まる。原子爆弾がこれほどの力を持つとは想像だにできず。吾(わが)国の敗北は吾(わが)科学の敗北なり。学習院の前途も定かならず。夜、コマルタ(石井教官)を囲み円卓会議。今後の方針について各自の今後の予定、計画をそれぞれ語る。僕は断じて鎌倉に帰り、国の再起の方法を考える。陸軍大臣�刃(割腹)との報道あり。夕方、鈴木内閣総辞職の報道入る。佐竹、粟田口、安保、早くも帰郷。9時消灯。

8月16日晴(木曜日)
 本日は5時起床。神社に参拝。もはや必勝の祈願にあらずして、平和への感謝をこめ未知の未来に向け祈念する。新たな血と涙の二日目。未だに敗北の実感なし。15時の報道で、新十圓と百圓ができる由。又、原子爆弾の威力、6キロ四方が完全に全滅。コンクリートの建物は生き残ったものも内部は全滅。火柱は八千米に達したとの事。朝も昼も荒れ地開墾で終始。前夜の鈴木内閣総辞職の後を受け、東久邇宮殿下に組閣の大命下る。

8月17日晴(金曜日)
 本日は昭和カーボン行。神社参拝後、7時に出羽寮で朝食。7時半出発。またまた材木運びなり。休み時間にトンチャン(戸沢)と風間さんのダットサンを動かしてみる。エンジンがかかった!後継内閣組閣完了。東久邇宮殿下は総理大臣と陸軍大臣を兼務あそばされる由。就寝前、中西、立花と、皆が別々に帰郷する別離の時が迫っていることから「最後��食事」の食べ物の調達について相談する。

8月20日晴(月曜日)
 いよいよ本日「最後の食事」第1回。湯野浜より母上が持参した「トマト」と「餅」を庄内病院で受け取り帰寮。以下、本日のメニューと寄贈者一覧。(1)11時 寮昼食、 (2)11時半 トマト・餅(田中)、(3)12時半 米粉・味噌汁(稲田)、(4)15時 かき餅(黒田)、(5)15時半 おこわ(黒川)、(6)17時 寮夕食、(7)18時半 おにぎり(立花)、(8)19時 炒り米(松平忠)。少しずつ分配す。一人当たり極々小量なれど、いずれも美味。

8月21日曇(火曜日)
 本日は作業場変更。鶴岡中学校前の戦時農園の除草を行う。霧深し。間もなく晴れ。はるか彼方の羽越本線にD51に牽引され、東京方面に行く貨物列車を見る。午後、寮周辺除草。

8月22日晴(水曜日)
 本日も戦時農場の除草。報道によると、25日から米英軍の進入が開始されるとの事。鉄道は全般的に麻痺状態で、鶴岡・東京間は不通。科長先生より、鉄道状況が改善されるまで一時帰郷は中断との話あり。教官より、帰郷すべき�所が不通地域外にある者は氏名と住所を報告すべし、との指示あり。本日、戦時中禁止された天気予報復活!平和が戻ったとの実感あり。

8月25日晴(土曜日)
 朗報!出羽寮からクロトン(渡辺末吾教官)にかかった電話を立ち聞いた者の話によると、帰郷に許可が出るらしい。事実、後刻、クロトンから地方の生徒から順次帰宅させるとの発表あり。イワッチャン(岩田九郎中等科長)名で父兄保証人宛の書簡を各自筆写す。前もって科長印を押印し、帰宅時に各自が日付を記入、自宅まで持参する事となる。本文次の如し。

 「拝啓、最悪の時局に当面し痛恨の至りに奉存候。本勤労隊も去る24日夜院長よりの指令に接し此所に解隊漸次引き揚げのことと相成候。交通の都合により御保証の学生靖政殿を本日お帰し申し上げ候間、御承知被下度候。移動証明書は本人に持参せしめ荷物は能ふ極り速かに送還の予定に御座候。今後の学校の都合は後日決定次第御通報可申上候。先づは御送還の御挨拶まで。如斯御座候。
      昭和二十年  月  日
                      学習院中等科長 � 田 九 郎 (自署) 印
      田 中 丑 雄 殿
      追って到着の上は目白本院宛御一報被下度候。」
      

8月26日晴(日曜日)
 清水、戸田、吉島、早速帰郷!!

8月27日曇後晴(月曜日)
 中西、東、黒瀬、北大路の4名、21時30分鶴岡発大阪行で帰郷。次に何時、何所で再会できるか分からぬまま、親しき友と別離するのは寂しい。又、彼らが去ったのが消灯直後であったので、彼らのことを想ひ、寝つかれないまま日記を書くことになった。

8月30日晴(火曜日)
 いよいよ本日、18時15分発の上野行きで帰宅できることとなった。15時、本日帰宅する11名、中野、加藤、戸沢、黒田、波多野、坂、正垣、河村、甲田、土子、田中がクロトンの部屋に招集され、最後の注意を受け、道中の無事を祈られて感激した。18時18分、たった3分遅れで鶴岡発、上野に向かう。母上がわざわざ湯野浜から鶴岡まで見送りに来てくれた。車中ででと、弁当を差し入れて下さったのは本心から有り難かった。さらば鶴岡!又来る日まで。空も海も敵がない時に。

8月31�雨後晴(水曜日)
 車中はギュウギュウ詰め。幸いにも鶴岡で座れた。0時ころ大雷雨に会ふ。隣席は戸沢。二人とも気疲れか、混んだ車内でよく眠った。6時50分ころ、高崎着。軽井沢方面に帰る、戸沢、中野、土子達は下車し、僕独りとなる。8時ころ大宮着。朝日と青空がまぶしい。超低空を艦載機の群れがかすめて行った。8時半、上野着。別車両に乗っていた鎌倉組の坂、波多野とともに山手線で東京駅へ。B29が丸の内のビルすれすれの低空を飛んでおり、これを援護するかのようにF6FとF4Uが上空を旋回しているのが、鮮やかに、またまぶしく見えた。もはや彼らを恐れることなし。ただ憎らしさのみ。横須賀線に乗り換え、11時過ぎに浄明寺の自宅に帰る。隣家から鍵をもらってドアを開けて、ようやく生きた心地が戻った。終わったのだ、ようやく!17時過ぎ、父上、帝大から帰宅。抱擁して互いに生あることの幸いを祝い、実感す。後は母上が湯野浜から戻れば家族全員が揃う。夕食後歓談。東京と鶴岡でのさまざまな出来事を時の経つのを忘れ話し合う。午前0時、本当に久しぶりに自分の部屋の�分のベットで就寝。小箱は父上に戻す。

<1945年7月 「学習院中等科勤労隊」の鶴岡出動>

 山形県鶴岡市は新潟と秋田のほぼ真ん中に位置し、こんにちでも「庄内米」、「だだちゃ豆」、芭蕉の句にも詠まれた「民田なす」などで広く知られている。肥沃な庄内平野の中央にあって農業と商業で栄えている町である。かつては庄内藩の城下町で、初代の酒井忠勝以来、譜代酒井家の居城があった。明治維新後、戦後に華族制度が廃止されるまで、酒井家の当主は伯爵を世襲した。

 1945年3月10日、B29約300機の集中的焼夷弾攻撃によって、東京の下町は完全に焼失、壊滅した。死者は7万とも10万ともいわれるが、今日に到るも正確な死者の数は確認されていない。1945年に入ってから学習院中等科学生の間にも罹災者が出始めた。私の家は鎌倉町(当時)にあったが、東京市四谷区(現在は新宿区)余丁町にあった父方の祖母が住んでいた家は、焼夷弾攻撃による火災を食いとめる「空き地の防火壁」を作るため、1枚の「強制疎開」の命令書で何の補償もなく、数週間の「準備期間」を与えられただけで軍に接収され、取り壊された。

 首都空襲の激化と罹災者の増加に伴い、学習院中等科は4月5日付で東京を離れて地方の学校に転校せざるを得なくなった学生に対して「疎開転学」を許すため、中等科長名で次のような通達を父兄保証人に送った。

「一. 中等科学生にして他校へ疎開転学と出願する場合は本学年間これを許可す。但し、本院に在籍のまま他所に疎開することは之を許可せず。尚復学出願の際は考査をなすことあるべし。
 一. 疎開転学の手続き左(以下)の如し。
疎開転学すべき学校の内諾を得て然る後本院長宛疎開転学願書を提出すること。
尚願書には区役所の「転出証明書」写しを添付すること。 以上。」

 学習院中等科の疎開転学許可は現実的で、かつ時宜を得たものであった。通達発送後一週間も経たない4月13日夜半、B29の夜間焼夷弾無差別攻撃によって目白の学習院は、図書館、別寮、銃剣道場を除き、木造の校舎、建物のほとんどを焼失した。(以下、省略)この空襲では、五反田、渋谷、新宿、高田馬場、目白、池袋など、山手線に沿った住宅地域が集中的に焼夷弾攻撃を受��た。

 この日、私は山手線が全線不通だったために、ひとり品川から目白まで線路上を歩いた。当時、高田馬場駅前には消火水用の大きな貯水池があった。前夜の焼夷弾攻撃で焼・溺死した死体を貯水池の底から竹竿でたぐり寄せ、引き上げている光景は今でも忘れられない。ほぼ3時間かけて目白校舎にたどりついたとき、中等科の建物(現在の西1号館)屋上には10本ほどの焼夷弾が垂直に突き刺さったままであり、屋上の床はまだ熱かった。焼夷弾が貫通しなかったのは学習院中等科の建物がいかに頑丈だったかの証拠である。屋上の床、各階の天井にも、超一流の建材が使われていたに違いない。焼夷弾が天井を貫通して室内まで落下したのは、3階の音楽教室だけだった。これも職員が消火し、天井と部屋の一部が燃えただけにとどまった。(以下、省略)

 中等科学生は、一人一人、教練の授業のために銃剣を渡されていた。また、3年生以上の学生には、小銃が渡されていた。これらの銃剣と小銃は、武器庫に厳重に保管されていた。4月13日の空襲後、銃剣も小銃も見えなくなった。武器庫とともに焼失したのか��いざというときのために、別の場所に移されて保管されたのか、よく分からない。とにかく、教練用の銃剣でも本物で、武器は武器である。銃剣がみえなくなって、丸腰の心細さだけが残った。

 次いで、5月25日夜半の空襲では四谷の初等科の校舎の木造部分が焼失した。夜間空襲のB29に加え、昼間には空母から発進したF6F、F4U、グラマンTBFアベンジャーなどの艦載機が毎日姿を現すようになり、もはや正常の通学や授業ができる状態ではなくなった。

  私自身、4月の半ばには、艦載機の機銃掃射を受けるという希有な経験をした。空襲警報が出て横須賀線が停まったため、鎌倉駅から自転車で浄明寺の自宅に戻る途中、超低空で通りすぎた3機のアベンジャーの腹部銃座(7.62mm機銃1門搭載)から機銃掃射を受けた。銃座に腹這いになったアメリカ兵の顔がはっきり見えるくらいに近かった。ドップラー効果のために頭上を通りすぎてから初めて爆音(1、900馬力 × 3機) と機銃音が聞こえ、道の両側の家の屋根に弾が当たり、瓦が砕け飛び散る激しい音がした。とっさに自転車ごと道路ぎわの溝に飛��込んで射線から逃れた。しかし、今でも相手が本当に私を殺すつもりで撃ったのか、あるいはウサギを撃つように遊び半分で引き金をひいたのか、分からない。もし彼らが本当に本気だったら、射止められていない方が不思議なような気がする。もっと不思議なのは、撃たれても全く「恐怖」を感じなかったことである。「怒り」と「憤り」、一方的に撃たれっぱなしで何の抵抗もできないことに対する「怒り」と「憤り」が、ようやく人心地がついた私が感じた唯一の感情だった。真にとっさの場合には、おそらく反射だけが生きていて、「恐怖」を感ずる余裕さえないものなのだろう。

 目白校舎が焼夷弾攻撃を受けてから3ヶ月後の7月、学習院中等科4年生、3年生、2年生合計約200名が(この時までにほぼ三分の一に相当する学生が、あるいは焼け出され、あるいは自発的に家族とともに地方に疎開していた)、「学習院中等科勤労隊」の名のもとに、山形県鶴岡市に「出動」することに決まった。「出動」とはいうものの、半分は戦争遂行のための軍事生産活動(工および農)の補助、半分は東京の焦土からの避��と延命であった。
必然的に、われわれ中等科学生は家族とは運命を別にすることとなった。

 「勤労隊」を積極的に受け入れたのは、庄内地方で酒田の本間家に次ぐ大地主であり、かつては酒井家の御用商人でもあった鶴岡一の豪商、風間家であった。戦前から風間家は農家の子弟の教育や福祉に関する慈善事業を行い、自ら幼稚園を経営するなど、庄内地方の名家として人望を集めていた。細かい経緯は学生には分からなかったが、おそらく風間家の子弟が学習院(旧制高等科)に在籍していたことが、もともと慈善教育事業に熱心な家訓を持つ風間家をして「学習院中等科勤労隊」を受け入れる最大の動機となったのではなかったろうか。

 冒頭の日記の中に「出羽寮」と「風間寮」という二つの寮名が出てくる。もともと「勤労隊」はかつて鶴岡一の料亭だった「新茶屋」を「出羽寮」と名付け、「宿舎」兼「教室」として使う計画だった。ところが、実際に生活をしてみると3学年の全員を収容するには手狭であることと、勤労作業の内容や場所が学年ごとに分散して行われることとなったために、3学年が1ヶ所に集中することが何かと不便であることが分かり、風間家の招きで2年生だけが風間家に引き取られ、分宿することとなった。こうして新たに設けられたのが「風間寮」である。

 実は、これには隠れた「裏」の話がある。最下級の2年生は、しばしば、直近の3年生の一部から「稚児狩り」と称する「セクシャル・ハラスメント」を受けた。「襲撃」は消灯後、目をつけられた2年生の寝る部屋に集団的に行われた。「襲撃」された2年生たちはは蚊帳の釣り手を一気に解き放し、平たくなった蚊帳の上にのしかかってくる3年生の腹を下から蹴り上げたり、寝業で締めつけたりして「自衛」した。さらに、「食事のまずさ・すくなさ」を不満とした3年生の一部は、夜半教官室に乱入して暴言を吐き、器物を壊すなどという暴挙に及んだ。この夜半の騒動は「これでも学習院か!」という大見出しで新聞沙汰にもなり、土地の人びとの顰蹙(ひんしゅく)を買った。われわれ最下級の2年生は最上級の4年生と直接接触することはほとんどなかった。だが、一部の3年生の「いじめ」から2年生をかばってくれたのは、いつも最上級生の4年生�あった。かくして、「良識的」な4年生と「跳ね上がり」の3年生を「出羽寮」に残して、われわれは「風間寮」に落ち着くことになった。ちなみに、この風間家旧宅「丙申堂」(へいしんどう)は、戦後、国指定重要文化財および国指定登録有形文化財の指定を受け、現在は城下町鶴岡市の重要な観光資源の一つとなっている。()
 
<「勤労隊」と「ヒロシマ」>

1945年8月6日、広島に原爆が投下された。最初の政府発表では「原子爆弾」とはいわず、「新型爆弾」と呼ばれた。2005年7月23日付「朝日新聞」によると、原爆投下の当日、広島から20キロほどはなれた呉の海軍工廠(こうしょう)の弾薬専門家が早くも広島に現地入りし、実態の調査に着手したという。また、これとは別に東京の大本営海軍調査団が海軍大臣米内光政の密命を受けて同じ日に東京を出発し、8日朝広島に入っている。この間、日本時間の7日未明、トルーマン米大統領は全米向け(ということは、全世界向け)ラジオ放送で広島に「原子爆弾」を投下したことを明らかにした。

 8日に現地入りをした大本営海軍調査団は、放射能測定用に採取した植物、後に核兵器のシンボルとなる「キノコ雲」のスケッチ図などを記録として後世に残している。8月8日付の「打ち合わせ記録」には、鉛筆で「原子爆弾ヲ使用セリトノ放送アリ 実体ヲ捕捉ス」とあり、さらに、破壊力は「TNT20000t」と書き込まれている。広島に投下されたウラン型原子爆弾の破壊力は「TNT(ダイナマイト)換算20キロトン相当」という数字が定説となっている。大本営海軍調査団は原爆投下2日後の8月8日にはすでにその事実を知っており、かつ「新型爆弾」が「原子爆弾」であることを証明するために、放射能で汚染された植物サンプルを採取していたようである。

 8月6日夜のラジオ放送で、われわれは広島に「新型爆弾」が投下されたことを知った。「新型爆弾」と聞いたとたんに、風間寮でラジオ報道を聞いていた2年生の誰かが(名前も顔も覚えていない)「アツ、原子爆弾だ!」と叫んだのを聞いた記憶が残っている。トルーマンがラジオで原爆投下を公表したのは日本時間の翌7日の未明である。アメリカが原子爆弾を開発しているという(アメリカの)超国家機密を事前に知っていた中学生が鶴岡の「学習院中等科勤労隊」の中にいたということになる。

 しかし、当時の学習院学生の生い立ちや背景を考えると、全くありそうにない話ではないように私には思える。われわれ中等科学生の中には、皇族(成人した皇族はすべて陸海軍の軍人となった)、貴族院議員、政府高官、外交官、陸海軍将官、通信社(NHKや同盟通信社)役員を親族や親戚に持ち、こうした人的なチャンネルを通じて世界の事情に詳しい者が多数いた。したがって、7月16日の原爆実験の成功や、7月17日以降のポツダム会議の内容を父兄から密かに知らされていた仲間がいてもそれほど不思議ではないように思う。おそらく「Atomic Bomb」という原語は、外務省、あるいは陸・海軍省で日本語に訳された当初から「原子爆弾」と訳されていたのであろう。「新型爆弾」を聞いて「原子爆弾」と即連想したのは、学生を含め学習院関係者ならば十分ありうることであった。

  同じようなことは私自身も経験している。1941年12月8日、日本海軍の航空部隊はハワイの真珠湾を攻撃して、一時的にではあったがアメリカの太平洋艦隊を無力化した。大本営は翌年の3月6日、真珠湾攻撃に初めて「特殊潜航艇」が参加し、その乗員9名が壮烈な戦死を遂げたこと、また、これら9名を「軍神」と呼び、2階級特別進級(特進)させることを発表した。太平洋戦争最初の「軍神」がこうして生まれ、最高の栄誉をもって靖国に合祀されることとなった。しかしながら、真珠湾攻撃の2日後の12月10日に、当時まだ小学生だった私は、東京帝国大学農学部長をしていた父から「他言無用」を条件に真珠湾で太平洋戦争の「捕虜第1号」がでたことを知った。10軍神ではなくて、9軍神だったのは、1人が捕虜となったためだったのである。それれはともあれ、万が一にも不注意、不用意にその驚くべき事実を口外するようなことがあったならば、「国賊」の誹りを受けるだけでは済まされず、さらに重大な制裁を受けていたことであろう。

 「虜囚の辱めを受けず」を軍律としていた大日本帝国ではこの「捕虜第1号」の事実は徹底して隠蔽され、戦後に至るまで明らかにされることはなかった。さすがに、父は、この「捕虜第1号」(坂巻和男海軍少尉であることが戦後明らかにされた)の氏名や階級については語らなかった。また私は、父親がどこから、どのようにして、この「捕虜第1号」の情報を得たかを聞かなかった。しかし、私はとにかく戦後まで明らかにされることのなかった「国家秘密」を父と共有したのである。

<「死」と「生」>

 「君がため 何か惜しまん 若桜 散ってかえある 生命(いのち)なりせば」
 「玉砕」
 「君が代は 巌(いわを)とともに 動かねば 砕けてかへれ 沖つ白波」
 「皇国の存亡 懸かって敢闘精神にあり」
 「かはらとなりて残るより 玉と砕けて進むべし」
 「大君の 御旗のもとに 死してこそ 人と生まれし かひはありける」
 「(乃木希典作)
  東西南北幾山河
  春夏秋冬月又花
  征戦歳余人馬老
  壮心尚之不思家」
 「神風は かくて吹くぞ と体当たる いさをの心に 我も続かん」
 「制空」
 「今や皇国 勝敗のきろに立つ 我等全力を挙げて 断じて米英を撃滅せん」

 「31st Jan Bye! Bye! So long. My Bonbon」
 「人生 20年といわれる今�� 一日一日を有意義にお過ごし下さいませ」
 「鉄鯨」

 以上は、1944年9月1日より1945年1月31日まで、われわれ「学習院中等科1年勤労報国隊」が過ごした小田原湯浅蓄電池工場での最後の夜、仲間たちが書き残してくれた一言録からの抜粋である。最後の三つは、小田原湯浅工場の職長、食堂のおばさん、工場長のものである。われわれのような手のかかる「Bonbon」をよく最後まで面倒をみてくれたものである。

 この小田原湯浅工場でわれわれは潜水艦が使う蓄電池の陽極と陰極の製造に従事し、そのかたわら、午前または午後の3時間は授業(数学、英語、国語、漢文、地理、歴史)を行った。

 11月1日、われわれは初めて本土に飛来したB29を真下から見た。高高度で4本の飛行機雲を引き、海の方角から富士山の方角に一直線で飛来したこのB29こそ、
われわれはその時は未だ知らなかったが、日本に対する焦土作戦の前触れであった。迎え撃つ戦闘機の姿も見えず、高射砲の発射音も聞こえず、高高度のためにB29のエンジン音も聞こえず、あたりは全くの静寂に包まれ、とてもこれが(戦争の)現実とは思えなかった。

 これには後日談がある。われわれ学習院中等科1年性が小田原でこの鮮やかな美しい飛行機雲をひいた最初のB29を見上げていた時間からおそらく30分ほど後に、東京板橋の学徒勤労動員先の工場で太平洋の方角に離脱しつつあるB29を見上げていたもう一人の中学生がいた。後に学習院大学長になる小倉芳彦さんである。私の古希祝賀会懇親会の席での雑談で、お互いに初めて同じB29を違う場所で見ていたことを知って驚いた。同じ学習院大学で教える二人の教員が半世紀以上も前の少年時代に、本土偵察に飛来した最初のB29を一人はB29の往路、もう一人はB29の帰路に見ていたことの偶然の不思議さを改めて噛みしめた。

 小田原湯浅工場はわれわれが去ってから間もなく、数十機の艦載機の銃・爆撃を受けて壊滅した。われわれに電極作りを手ほどきしてくれ、われわれと一緒に電極作りに励んだ、われわれと同年配の少年工員たちがこの空襲の犠牲になったことを、かなり後になってから知った。自らの運命の幸いに感謝することとともに、他者の運命の悲しさに耐��ねばならないことを、この時に同時に学んだ。

 幸いなことにまだ若年だったわれわれは、仲間に戦死者をださないですんだ。しかし、早生まれの者の中には1945年の春、陸軍幼年学校や海軍兵学校予科に入学した者もいた。終戦後、彼らは全員無事学習院中等科に復学するのであるが、彼らほど幸運ではなく、艦載機の銃・爆撃を受けて高射機銃の銃座ごと文字通り木っ端みじんとなって戦死した幼年学校生徒もいたそうである。死と生はおそらく紙一重の差にあるのであろう。

 軍部は「本土決戦」の成果(敵に与える壊滅的損害)を真面目に考えていたようであるが、われわれの家族もわれわれも「本土決戦」の成果など真面目に考えてはいなかった。「本土決戦」になろうとなるまいと、すでに東京、横浜、名古屋、大阪などの大都市を壊滅させたアメリカ陸軍および海軍航空部隊が、中小都市を次の焦土作戦の目標に選びつつあることは明らかだった。日本人に残された選択肢は多くなかった。われわれ 「勤労隊」がそうであったように、一家が離散したまま、いつかB29の焼夷弾攻撃か、艦載機の銃・爆撃で葬ら��る運命にあった。そして最後の止めを「本土決戦」が刺すことになり、おそらくわれわれとわれわれの家族の半数以上は絶滅する。少なくとも、われわれの多くはそのように考えていた。

 冒頭の日記に記されているように、裏日本の鶴岡にも太平洋上の空母から発進した艦載機が飛来し、10キロくらいしか離れていない湯野浜温泉郷に銃・爆撃が加えられ、犠牲者がでた。庄内の中都市、酒田と鶴岡はいつ焦土となってもおかしくはなかった。鶴岡の人びとはまだ予想さえしていなかったかもしれないが、東京に住み、昼夜を分かたぬB29の焼夷弾攻撃と艦載機の銃・爆撃に幸いにも生き残ったわれわれは、B29の焼夷弾攻撃や艦載機の銃・爆撃のもたらす情け容赦ない破壊がどのようなものであるかを肌で知っていた。焼夷弾による集中攻撃から生ずる熾烈な火災は、とうていバケツリレイやござで消せるような生やさしいものではないのである。

 「本土決戦」の時期が迫っているいることを、鶴岡の「学習院中等科勤労隊」の教官も学生も身近に感じていた。手にする武器はなにもなく、当時流行った「竹槍」訓練は中��生のわれわれにとってすら全く馬鹿馬鹿しく思えた。フル装備のアメリカ兵に対して、徒手空拳に近い「竹槍」でいったい何ができるというのか。「玉砕」とは美しい言葉であるが、実際には「自殺」にすぎない。負けれることが分かっていても、降伏することは許されない。捕虜になれない以上、死ぬことが分かっていても、こちらから攻撃するよりほかに選択肢はない。したがって、全員が攻撃して、全員が撃ち殺される。これが「バンザイ突撃」の実態である。しかし、皮肉なことに、「全員攻撃して、全員殺される」ことは自殺的ではあるが自殺ではない。自ら死ぬのではなくて、敵に殺されるのであるから、自殺ではなく戦死である。戦死であれば名誉であり、国の誉れとして靖国神社に合祀されることとなる。

 当時の日本人にとって、戦争による「死」には2種類あった。

 一つは「名誉ある戦いの死」であり、「靖国神社に合祀される戦闘員の死」である。キスカ・アッツ、インパール、硫黄島、サイパンなどで「玉砕」した兵士たち、乗艦とともにともに運命をとともにした水兵たち、神風特攻隊員、最後ま�負傷者の看護に当たり捕虜になるよりも死を選んだ従軍看護婦たちと彼女たちと運命をともにして集団自決した女学校の少女たち。彼ら、彼女らは、戦場で死を遂げた「戦闘員」もしくは「戦闘員に準じた民間人」であった。

 もう一つは「銃後(国内で生産・生活活動を行う)の護りの死」であり、「非戦闘員の死」である。湯浅小田原工場で艦載機の銃・爆撃を受けて死んだ少年工員たち、3月10日夜半B29の焼夷弾攻撃で焼死した東京の市民、原爆の放射線、熱線、衝撃波を受けて死んだ広島市民。彼ら、彼女らは、銃後を護って死んだ「非戦闘員」であった。

 鶴岡の「学習院中等科勤労隊」の教官も学生も「本土決戦」が迫っているを感じており、日本の最後が間近かなことを暗黙に受け容れていた。しかし、われわれは当時流行りの「竹槍訓練」は全く軽視しており、実施しようなどとは思ってもみなかった。フル装備で武装したアメリカ兵を竹槍で殺傷できるなどと考えることは、3月10日の東京の大火災をバケツの水で消そうとするのと同じくらい非現実的のように思われた。もしわれわれに、戦争末期のドイ�における「ヒトラー・ユーゲント」(ヒトラー少年団)のように小銃や手投げ弾(手榴弾)が手渡されていたならば、あるいは、現在の中近東各所に見られる少年兵のようにプラスティック爆弾やロケット砲が支給されていたならば、われわれもまた「非戦闘員・戦闘員」として戦わざるを得なかっただろう。しかし、われわれが手にできた武器はせいぜい「竹槍」しかなかったから、もし生き残れないのであれば、好むと好まないにかかわらず、「第二の死」にしか選択の余地は残されていなかった。われわれは、畢竟(ひっきょう)、純粋の「非・戦闘員」でしかなかった。したがって、あれわれの運命は、3月10日夜に焼死した東京市民のように、戦わずして一方的殺戮による「死」を予期せざるをえなかった。

 戦時中に私は「死」にはさらにもう一つ別の側面のあることを学んだ。

 いかなる「死」についてもいえることだろうが、特に戦争の「死」には「速い死」と「遅い死」が苦しみの岐路となる。直撃を受けて木っ端みじんとなる死。急所を貫通されて即死する死。これらはいずれも「速い死」である。死を認知す�時間、死を苦しむ時間が、限りなくゼロに近い。他方、はみ出した内臓を自分の手で腹の中に押し込めつつ、のたうちながら息を引き取る死。火のついた梁の下敷きとなり、自分が生きたまま焼かれるのを見ながら死ぬ死。これらはいずれも「遅い死」である。意識があるかぎり、ほとんど無限に近い間、苦痛と死の恐怖にさいなまれる「死」である。死はいずれにしても美しいものではないが、選ぶことができるものならば、人が「速い死」を望むのは極めて自然であろう。

<「本土決戦」と「勤労隊」>

 終戦のその日まで、「学習院中等科勤労隊」の教官と学生はあくまで「死」を個人的、私的な事柄とし、「勤労隊」としての「集団的な死」に触れることはなかった。

 それでも、「死」は常に身近かな問題だった。われわれの仲間には親族や親戚に軍人がいる者が多かっただけに、当然身近に戦死者のいる仲間が多かった。私の友人の一人は、海軍航空隊司令だった父親と同じく海軍航空隊パイロットだった2人の兄を失っていた。また、もう一人の友人は艦隊司令官だった父親を南太平洋上の海戦で艦とともに亡く��ていた。また、外地の戦闘や内地の空襲で民間人の親族や親戚を失った者も少なくなかった。私の叔父は3月10日夜の空襲で行方不明となり、またもうひとりの叔父は終戦直前のソ連軍による満州侵入で行方不明となり、それ以後、二度と消息を聞くことがなかった。

 われわれは山形県鶴岡市にあり、家族は各地に散在していた。「本土決戦」が現実となる前に、目白の中等科本部から何らかの指示があるだろうという予想はあったものの、最終的には自分のことは自分で決着をつけざるをえないことを全員が覚悟していた。ただ一つ、「救い」があった。庄内地方は基本的に米の生産地であり、目立った軍事目標がない。したがって、「本土決戦」になっても鶴岡が実際に戦場になるまでには若干の時間的余裕があるだろう、と誰もが思った。サイパンや沖縄では非戦闘員にも集団自決用の手投げ弾(手榴弾)が配られたという噂を聞いていた。鶴岡で武器として使えそうなものは、稲刈り用の鎌くらいしかなかった。戦う気持ちはあっても戦う手段は皆無である。したがって、名実共に非戦闘員に徹する以外に道はなく、逃れるだけ逃れ、隠れるだけ隠れて、後は運を天に任せるというのが、われわれの多くが抱いた偽らざる諦観であった。

 「本土決戦」についてのわれわれの考え方には、「諦め」と「夢」が同居していたように思う。どうせ先陣を承ってこんな田舎まで入ってくるアメリカ兵は無教養で粗野な男たちに違いないから、アメリカの詩人、ロングフェロー (Henry W. Longfellow)やポー (Edgar Allan Poe) の詩でも暗唱して煙にまいてやったらどうだ、という冗談を言う者もいた。いや、それよりもアービング・バーリン(Irving Berlin) の新曲にどんなのがでているか、アメリカ兵に訊いてみたいという者もいた。奴らのチョコレートやチューインガムを奪って食ってから死にたい、という者もいた。私は無性にアップルパイ(戦前、毎月1回土曜日に父が大学からの帰途買ってきてくれた最高のおみやげ)が食べたかった。「本土決戦」を待つしばしの間、われわれには何かの「夢」が必要だったように思う。

 私は東京を離れるときに、父から2重になった金属製の小箱を手渡されていた。内側の小箱には薬袋に包まれた錠剤が何錠か入っていた。同じような小箱を父も母ももっていたのを見たことがある。「どうしても死ななければならなくなったら、どうしても今死ななければ苦しさに耐えられないと思ったら、これを噛んで飲み込めばいい。」と父は言った。「長く苦しい死よりも、苦しみの短い死を」というアイディアは、私が望んだ死の来方でもあった。中身がなんであったのか、父もいわなかったし、私も聞かなかった。薬理学の専門家であった父には容易に入手できたであろう「青酸」系あるいは「ストリキニーネ」系の化学物質であったかもしれないし、最後まで安楽死ができる安心を心理的に担保するだけの人工甘味剤「サッカリン」であったのかもしれない。

 いずれにしても、父の悲しい親心は、両親と生き別れになろうとしていた一人っ子の私の胸にこたえた。家族の写真と一緒にこの小箱は、トランクの懐中物を入れるポケットにハンカチと一緒に入れられて鶴岡まで運ばれ、私が8月30日に鎌倉の家に帰宅した時にトランクと一緒に戻ってきた。その晩、私はこの小箱を黙って父に戻した。父も黙ってそれを受け取り、二度とこの箱のことに触れることはなかった。 

<「玉音放送」からミズーリ艦上の降伏文書調印>

 8月15日正午にラジオで流された天皇の「終戦の詔勅」、いわゆる「玉音放送」は、われわれ「勤労隊」の4年生から2年生まで全員がそろって鶴岡の「出羽寮」で、直立不動の姿勢をとって聞いた。戦前は、目上(特に天皇、皇族、上官、教官)の言葉を聞くときには、背筋を真っ直ぐにのばし(直立)、眼も身体も全く動かさない(不動)、いわゆる「きをつけ」の姿勢をとることが当たり前だった。

 しかしながら、正午きっかりに始まった「玉音放送」は、録音状態も放送状態も決していいとはいえず、どこか遠くの国からの国際放送を聞くように、天皇のお声は強くなったり弱くなったり、大きく波うって聞こえた。また、詔勅の言葉自体が極めて難解で、お声が聞き取れたとしてもほとんど意味が分からなかった。「終戦の詔勅」の出だしは、次のような言葉で始まる。原文で使われた文字のかなり多くが当用漢字にはないので、ここでは「カナ」で書くことにした。また、今はほとんど使われなくなってしまった言葉に対しては、読者の便宜の��めに( )で「ヨミ」をつけた。

 「朕(ちん)深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状ニ鑑(かんが)ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シココニ忠良ナルナンジ臣民に告ク
 朕ハ帝国政府ヲシテ米英支そニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ」

 「玉音放送」は、第1に日本がアメリカ、イギリス、中国およびソ連に破れ、これから尋常でない(大変な)事態になることを述べた天皇自らの敗戦の宣言、第2に交戦国および日本の国民に対する(この戦争に対する)遺憾の意の表明、第3に今後の新たな平和の宣言、を包括するものであった。聞き取りにくいながらも、その日、出羽寮で「玉音放送」を聞いたわれわれの大半は、天皇独特の抑揚のある話し方にもかかわらず、次の部分を驚くほどはっきりと聞き取ることができ、この詔勅が名実ともに「敗北の宣言」と「遺憾の表明」であり、かつ「新たな平和への宣言」でもあることを読み取った。

 「オモウニ今後帝国ノ受クルベキ苦難ハ固(もと)ヨリ尋常ニアラス ナンジ臣民ノ哀情モ朕善ク之(これ)ヲ知ル 然(しか)レトモ朕ハ時運ノ趨(おもむ)ク所堪エ��キヲ堪エ忍ヒ難キヲ忍ヒテ以テ万世ノ為(ため)ニ太平ヲ開カムト欲ス」

 「思えば、今後、日本国が受けるであろう苦難は、非常に大変なものである。あなた方国民の降伏に対する無念も、私はよく理解している。しかし、私は、事態の趨勢にしたがい、堪えがたいことを堪え、忍びがたいことを忍んで、将来のために平和への道を選んだのである。」(河原和敏訳)(http://www.list.room.ne.jp/~lawtext/1945EndWar.html)

現人神(あらひとがみ)天皇が自ら「堪え難きを堪え、忍び難きを忍んで」日本の降伏を認めたことに、われわれはこれまで経験したことのない、また思いもかけなかった天皇の「仁慈」を親しく感じて泣いた。「本土決戦」をひかえて死を必然と受け取っていたわれわれに生への執着を取り戻してくれたのが、「終戦の詔勅」であった。もし「本土決戦」が現実のものとなっていたならば、「敗戦」までにわれわれ「勤労隊」の半数以上が生きてはいられなかったであろう。

 8月28日にはアメリカ軍の先遣隊が厚木に到着し、日本軍の武装解除状況を監視した。30日には占領軍総司令官マッカーサー元帥がコ�ンパイプをくわえたあの有名な写真のポーズで厚木に降り立った。私が鎌倉の自宅に戻った8月31日にはアメリカ軍による日本占領がすでに始まっていたわけである。

 帰宅の翌日、9月1日の夕方、私は家から自転車で由比ヶ浜へ出かけた。人影の全く見えない由比ヶ浜で、私は想像に絶する異様な相模湾の風景を見た。台風を避けたと思われる相模湾に集結した大小100隻近い軍艦で、はるか彼方まで視界は一杯だった。右から左まで文字取り隙間なく大小の軍艦が投錨していて、水平線が見えなかった。数隻の空母から艦載機が発着(今の言葉で言えば、タッチ・アンド・ゴー)しているのが手にとるように見えた。おそらくこの中のどこかに、翌日の立役者、戦艦「ミズーリ」もいたはずである。

 あっけにとられたというか、あまりの物量のものすごさに呆然とした。南太平洋の「飛び石作戦」、そして「本土決戦」。これまでの3年間の戦いによる戦地と銃後の膨大な犠牲はいったい何だったのか。嵐を感じさせる毒々しい夕焼けを背に黒いシルエットを浮かび上がらせた大小100隻近いアメリカ艦隊の姿に、ミッ�ウェー海戦(1942年6月)以降の日本の犠牲はひょっとしたら全く無駄な犠牲ではなかったかと思い、暗澹たる気分となって帰宅した。

 翌9月2日、予定通り、戦艦「ミズーリ」艦上で降伏文書の調印が行われた。かくして、太平洋戦争は、緒戦の真珠湾攻撃で爆沈、転覆した戦艦「アリゾナ」で始まり、勝者の連合軍代表と敗者の日本帝国代表がそれぞれ降伏文書に調印した戦艦「ミズーリ」で幕を閉じた。

<1945年10月4日(木) 学習院中等科目白校舎で授業を再開>

 (省略)占領軍は目白の学習院にも20名ほどの分遣隊を送り込んだ。学校が学校だから、占領軍兵士や外部者による略奪などから学習院を守るという目的と、超国家主義者の不穏な動きの温床となることに対する警戒という目的があったのかもしれない。しかし、より直接的には、終戦間際に陸軍の分遣隊が目白の学習院の構内に入っていたので、学習院が「軍の関連施設」とみなされたせいであったと考えられる。

 占領軍の分遣隊は、当時の中等科校舎のロッカー室(現在の西1号館1階非常勤講師控室)にコットを持ち込んで起居して��た。銀棒1本の若い中尉(現在の階級でいえば2尉)が指揮官で、われわれとほとんど歳の変わらない若い兵隊たちは、授業がなく、ほんのひとにぎりの学生しかこない静かなキャンパスで、退屈そうに、しかしのびのびと日向ぼっこをして学習院の「守備」を続けていた。なお、当時の学習院の非公式の英訳は「Peers' School」(華族学校)である。

 このアメリカ人中尉とわれわれのコミュニケーションは比較的うまくいっていた。最初の出会いの時に、われわれは若干のからかいの気持ちを含めて、「This is the Peers' School.」 と言ったのだが通じない。発音が悪いからだろうと思って、文字で書いてみたが、これも通じない。鶴岡で冗談に言っていたように、アメリカ人はやっぱり田舎者、「Peers' School」という語彙がそもそも共和国のアメリカにはないのだということを確認して、われわれは大いに満足した。

 それでも、われわれは決して「チューインガム」をもらうことをおろそかにしたわけではない。「Chewing Gum, USA. Very nice. Very very good!」 ほめられると人間は誰でもうれしくなる。2、3回の勝者と敗者のカタコト英語�対話の結果、アメリカ軍の軍用食料である「C Ration」や「Milkyway」チョコレート、「キャメル」「ラッキーストライク」「フィリップモリス」のようなタバコまでくれるようになった。これに対して、われわれは、戦時中も家に密かにストックしてあった「サントリーの角」(当時は国産の最高ウィスキー)を持ち出し、「Japanase Whisky No One」としてアメリカ兵たちに恭しく献上した。意外なことに、メイド・イン・ジャパンのサントリーは彼らの口にあったようである。

 9月の20日過ぎ、1通の粗末なガリ版刷り通知がわれわれの自宅に学習院中等科長名で届けられた。

 「拝啓、時下秋冷の候、愈々御清祥の段奉賀候。陳者本院中等科に於いては来る十月四日(木)より授業開始の事と相成候に付、左記要項御一覧の上学生の通学勉強等につき万端の御配慮賜り度此の段御通知申上候              敬具
                        記
1 十月四日(木)午前九時、学生は全員中等科玄関前(現在の西1号館中央玄関前)に集合のこと。当日弁当携行。服装は作業服。巻脚絆(まきぎゃは��=ゲートル)着用。
1 食事、宿舎等の準備は学校にて考慮中なるも目下の所実現の見込無之候。以上。
昭和二十年九月十九日
                            学習院中等科長  岩 田 九 郎
父兄保証人殿」

 そう、戦争は終わった。敗戦国という新しい状況のもとで、こうして学習院中等科は新たな第一歩を踏み出すことになった。アメリカの物量と科学に敗れた日本は、新たな立ち上がりによって、アメリカと対等、もしくは勝るものをこれから捜しあてることができるか。そんな意識を秘めて、われわれは目白に戻った。

(この項おわり)

投稿者 m-staff : 2005年07月09日 16:58

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